--------------------------------------------------

■   月の檻   ■

--------------------------------------------------






 変わらない日常は退屈だと、誰かに話したことがある。
 紅い霧を広げ幻想郷を覆ったことがある。
 東の国の鬼と一戦交えたことがある。
 狂気の満月の下で不死人と対峙したこともある。
 まるで変化こそが日常のように、繰り返された。
 あのころの私には。
 全ての変化が好ましく感じられた。
 消えていくのも、生まれてくるのも。
 全ては当然のことだと、冷たい目線で眺めることができた。

 それからほんのわずかの歳月がすぎた。
 最近の私は……目覚めが、すこぶる悪い。



 身を起こすと、静寂が襲ってきた。
 私がすごす、快適な、夜の静けさではなかった。

「……寝ぼけているのかしらね?」

 言葉に意味はない。
 ただ惚(ほう)けているだけなのだから、私にも意味はない。
 そんな私の言葉には意味がない。
 単純に今は太陽が昇る時で、私にとってその時間は就寝の時なのだ。
 目覚めてしまってはしかたがないので、早朝組のメイドを呼んでティータイムの準備をさせた。
 ひどく紅茶の味がそっけないのは、物思いにふけってしまったからだろうか。
 考えなければ、それは喉元を流れる人間の生命にすぎない。
 いつからか、私にとって紅茶はそうしたものになっていた。
 味気ない、栄養補給。

 ……いや。
 本来、紅茶を飲むことは私にとってそうした味気ないものだったはずだ。
 なのに、どうしてか舌が求めているのは……違うもののような気がしている。

 嗜好が、はっきりしない。
 思考もだ。
 本来、みんなハッキリしないものだ。
 けれど、はっきりしなさすぎる。

 今日は早起き?
 本日は寝坊?
 今は、明日?

 はっきりしない手元で、胸元をさぐる。
 取り出した懐中時計は、止まったまま。
 動く気配などありはしない。

 ああ困った。
 長い時を生きる私にとって、本当はあまり困ることではないのだけれど。
 ぼうっとしすぎて。
 自分の「時間」を、忘れ気味だわ。






 物思いにふけっていても、眠気がもう一度訪れることはなかった。
 いやにはっきりと眼が覚めてしまい、ぼうっとしているのも次第に苦痛になってくる。
 困った私は自室のドアを閉めて、静かな紅魔館を歩くことにした。
 館内で立ち働くメイドの姿がちらほらと見える。
 そしてメイドと共に視界に入ってくる、館内の現状。

 統制の取れていないメイドの働き。
 汚れが目立つ廊下。
 色がおかしい壁。
 天井の隅にまとわりつく綿埃。

 ため息をついて、階段の手すりにもたれかかる。
 こうしてしみじみ観察してみると、手入れを怠っていたのが身に染みてくる。
 家の状態は主(あるじ)に似る、その言葉に従えば今の私は自己の管理ができていないようだ。
 無理もない。
 今この館にメイドはいても、彼女たちを統括するメイド長はいないのだから。

 はっきりしない。
 手入れが必要なのは。
 館のことか。
 私のことか。
 ……どちらも同じか?



 惚(ほう)ける時間を止めて、私はヴワル魔法図書館に向かうことにした。
 退屈な時間を埋めるには、本を読むのも一つの手だと思いついたからだ。

 時刻はまだまだ朝の時。
 図書館が開いているかどうか定かではなかったが、扉はやすやすと開いた。

 それもそのはず。
 図書館の主である、私の親友が起きているからであった。

「パチェ?」
「……レミィ?」

 親友は眠気と格闘している様子はなく、冴えた眼で視線を本に走らせていた。

「もう起きているなんて、早いわね」
「逆よ、昨日から起きっぱなし。もうそろそろ寝たいわ」

 でもやることがあるから、と呟いて再び本へと視線を戻す。
 けれど心なしか、彼女に先ほどのような集中力がなくなっていると私には思えた。
 案の定というべきか、本から視線をはずしこちらへ向けて話しかけてきた。

「……あなたがここに来るのも、久しぶりね」
「そうかしら?」
「ここ何年かは、訪ねてきてさえくれなかったじゃない」
「その前にあなたがこちらに来るからよ」

 そういうことじゃないのだけれど、とパチェは呟く。

「なにをしているの?」
「妹様と行う、授業の準備よ。昨日は魔理沙のところへ行っていたから、今日の用意をなにもしていなかったの」
「ああ、だからこんなに朝早くまで起きているのね」
「徹夜は身体に良くないんだけれど、仕方ないわね」

 正確には朝帰り? とか言い出すあたり、親友もけっこう惚(ほう)けているのかもしれないとは思う。

「魔理沙がここへ来ないで、代わりにあなたが他人の家へ赴(おもむ)く。……昔からは考えられないことね」

 あのころは、まるでお祭り騒ぎのように爆発音が響いていた。
 いがみあいながら、慣習のように定着していった攻防戦。
 静寂を第一とする図書館が、紅魔館の中でもっとも騒がしい場所だった。

「外に出るのは、やっぱりつらいけれど。小悪魔と妹様が助けてくれるから」
「フランドールが……そう……」

 魔理沙との出会いで、少しづつ変わっていった私の妹。
 だけれど……しばらく、顔を見てあげてもいなかった。

「妹様はあれで結構、面倒見がいいのよ。たまに加減ができなくてやりすぎちゃうところは、もう個性として割り切ったほうがいいのかもしれないけれど」

 苦笑するパチェに、私はどうしてか息苦しさを感じた。
 ……姉の私より妹を知っている親友に、息苦しさを感じてしまっていた。

「……人間が年をとるってこと、妹様もぼんやり感じてきたみたい」
「?」

 パチェの話がなにを指しているのか、私にはわからなかった。
 魔理沙のことよ、と彼女は付け加えてくれた。

 記憶を思い返す。
 一番新しい、魔理沙と会ったときの記憶。
 彼女は……私よりも親友よりも、年上に見える外見をしていた。

「妹様が、魔理沙を失くしたくないって言ってるわ。動かせるうちに、なんとかしなきゃって」
「……フランの言い方は、まるで壊れそうな人形に対して言っているみたいね」

 森の人形使いも、直せるものならば直そうとするだろう。
 ……だが、霧雨魔理沙は人間だ。
 妹はまだ、その区別がついていないのかもしれない。
 自分と同じように会話して戦える存在が、ちっぽけに死んでしまうということが理解できないのかもしれない。

「実際、そうかもしれないわ。彼女にとっては、魔理沙という大事なオモチャが失くなるって感覚かもしれない。種族の差を、まだ自覚できていないのかもしれない」
「……確かに、そうかもしれないわね」

 フランドールにとって、人間を本当の意味で「失う」のはこれが初めてのことだろう。
 ……私にも、覚えがある。
 大切な、人間を失った想いがある。

 あの悲しみを。
 今の惚(ほう)けた私が。
 受け止めてあげることができるのだろうか。

 誰かを失った、あの時の記憶を。

「あなたは、どうなの?」
「え?」
「彼女を亡くしたこと、後悔してない?」

 彼女。
 彼女とは、誰を指すのだろうか。

「彼女……」

 呟くが……思い当たらない。
 だが……誰でもいいではないか。
 私には、人間の死など……当たり前のものなのだから。

「……後悔なんて、するはずがないでしょう」
「そう」

 ばん、と机と本がぶつかりあう。
 本を慈しむ親友にしては、粗雑な行為。

「……ぁ、……」

 パチェはなにか言おうとしたが、口をつぐんだ。
 なにか苦々しい表情で。

「レミィ、悪いけどわたしはもう寝る……あら?」

 投げやりな口調で会話を打ち切ろうとした途中、パチェは整理を終えた本のなかから一冊を取り出す。

「魔理沙に渡そうと思っていた本……こんなに近くにあったのね。灯台下暗しとはよく言ったものだわ」
「魔理沙に渡そうと思っていたって、どういうこと?」
「ああ……見つからなくて、昨日持っていかなかった本なの。小悪魔がここに置いておいてくれたのね」

 従者の気遣いに感心するパチュリーの表情に、私は羨ましさを感じる。
 ……なぜ羨ましいのかは、わからないけれど。

「小悪魔に行かせるわけにはいかないし……私もつらい。今度、魔理沙に届けてあげればいいわね」

 パチェのその言葉に、私はこう合わせた。

「……その本、私が届けてあげましょうか」
「……なんですって?」

 ふっと浮かんだ考えに、思い切り信じられないといった表情を返すパチェ。
 さすがに、親友とはいえひどい対応だと思ったりした。

「たまには外に出ないと、身体がなまりそうなのよ」
「……今は日中よ」
「心配?」
「以前みたいに、黒焦げで帰ってこられたらたまらないから」

 ふっと。
 陽の光の下で。
 あらゆる想いに焼かれた記憶を思い出す。

「大丈夫よ」
「……本当に、大丈夫?」

 不安そうな親友の手から、本を受け取る。

「大丈夫。落ち着くには……充分な時間がたってるから」
「……魔理沙に渡すのは、今度でもいいのよ。今の魔理沙は、ここから本を奪っていくほど……知識は求めていないから」

 私を行かせまいとしている理由付けかと思ったが、そうでもないようだった。彼女の表情に、寂しさが混じっていたからだ。
 今の魔理沙は、知識を求め図書館に侵入したころとは別人になっているのだろうと思えた。
 パチェの表情が、それを物語っていた。

 人間は変わる。
 望もうと望むまいと、変わらざるを得ない運命を背負っている。

 静かな図書館。
 騒がしさのないこの場所は、長くこうした静けさを持った場所だった。

 騒がしかったのは。
 一瞬の輝き。
 それは本来、ここのあるべき姿ではない。

「……驚かせれば、また飛び回るかもしれないでしょう?」

 けれど。
 もう一度見たいと思わせるのは。
 戻ることのない、一瞬の美しさがあるからなのだろうか。

「それに……ね」

 魔理沙だけではない。
 一瞬を、作り続けたのは。
 けれど……この惚(ほう)けた頭では、それを思い出すことができない。

「惚(ほう)けた頭を治すには、慣れないことをするのが一番なのよ」

 本人に出会えば。
 この頭の霧も晴れるかもしれない。

 晴れた先にある記憶に。
 吸血鬼らしく。
 焼かれなければいいけれど、と苦笑して。
 私は図書館を後にした。






「以前は、こっちから乗り込むくらいだったのになぁ……。届けてもらうようになるとは思わなかったぜ」

 特にお前さんがここに来るなんて想像できなかった、と言って彼女は笑った。
 霧雨魔理沙に招かれて彼女の家に上がれば、歩くより飛んだほうがいい場面に何度か遭遇することになった。
 彼女の家に来ることは数えるほどしかなかったが、いつ来てもその乱雑さには磨きがかかっているように思えた。
 だが、それは今の紅魔館とは異なる乱雑さだ。
 比較的腰を落ち着ける場所を見つけた私たちは、本を渡したあとは昔話に興じていた。

「乗り込んできても、パチェは歓迎するでしょう。小悪魔も待ってるんじゃないかしら」
「ありがたいことだぜ。でも、なぁ……」

 昔話の最中に影がさすようになったのは、彼女が堅実に時を重ねてきた証なのだろう。

「今は、夜に文字を読むのも疲れるんだ。夜道なんてとても飛べない」
「……そう」

 ならば紅魔館に移住するのはどう? と私は提案する。
 彼女は苦笑しながら、それは無理だと受け答えた。

「子供ってのは環境で変わっちまうからな。紅魔寄りというより、霧雨寄りにしたいからな」

 魔理沙の視線の先には荷物が除かれた道があり、奥にはドアがあった。
 なんでも今は研究の真っ最中で、手が離せないそうだ。

「昔会ったときはひどく小さかったけれど、大きくなったの?」
「お前さんと私が始めて会ったとき、くらいかな? ミニ八卦炉も使いこなせるようになってる。たまにフランと弾幕ごっこしてるぜ。もっとも、フランはかなり手加減してるみたいだけどな」
「……早いわね。時の流れというものは」

 それとも、人間の生命が短すぎるのか。
 私の思いを無視して、魔理沙は子供の話を続ける。
 かつての彼女からは考えられない、落ち着いた女性らしい表情で。
 母親の表情で。

「昔の私にそっくりだ。研究熱心で負けず嫌い。なんにでも首を突っ込みたがるわりには、本当は臆病」

 私も思い返す。
 紅い月の晩。
 紅魔館、紅魔館の住人、そして私……紅い色を背に、最も力がみなぎる夜。
 なのに。
 あの日、私は紅白の巫女に敗れた。
 あの日、親友と私の妹は目の前の普通の魔法使いに敗れた。
 最も力に満ちたあの日を節目として、なにかが崩れ去った。
 そして以前とは異なる、騒がしい日々が始まった。
 夢のような一時の日々。
 その日々のなか、まだ少女だった眼前の老婆は最速の名をほしいままに幻想郷を駆け巡った。
 どこまでもどこまでも。
 求めることをやめない貪欲さで。
 変わることを恐れない強さで。
 霧雨魔理沙は周囲の人間や妖怪を振り回した。
 生命力の塊。
 人間の象徴。
 だから彼女は、老いた。
 老いた少女は……過去を思い返すことはできない。
 できるのは、過去を憧憬することだけだ。

「あなたが臆病? 『霊夢』が聞いたら、なんて言うかしら」
「さあな。ただ、お茶をすするんじゃないか。臆病でもいいって」

 臆病を克服するために。
 戦い続け。
 年をとり。
 平穏な日々に慣れていく。

「……子供を育てるなんて、意外だったわ」
「あのころは私も若かったし、そんなことを考えたこともなかった。でも、な……わかるんだ。八卦炉に流れこむ、自分の力が弱くなっていくことが。そして……」

 魔理沙の顔に笑みが浮かぶ。
 そしてそれは、長い付きあいの私でも見たことのない種類の笑みだった。

「……わかるようになったんだ。あの子の力に、私よりも未来があるってことをな」
「負けず嫌いだったあなたが、負けを認めるの?」
「負けじゃないさ。ただの……事実だよ」
「事実、ね」
「そうさ。霧雨魔理沙は……お前やパチュリーにいつ会えなくなるか心配する、普通の人間になっちまったのさ」

 変わり続け。
 平穏な日々をすごした後。
 人間は、永遠の眠りにつくことになる。
 彼女は……その道を、着実に歩んでいる。

「ねえ、魔理沙」
「ん?」
「不老になりたいと思ったことはない?」

 何の気もなく……言葉は漏れ出ていた。
 魔理沙は少々困ったような顔をして、何の意図もないはずの私の質問に受け答えた。

「それはもっと若いときに聞くもんだぜ。そうすれば、若いってことに良さしか見出せないからな。まあ、年とったらその逆になるだけなんだが」
「答えになってないわ」

 遠い眼をして、魔理沙はため息をつく。
 その眼がなにを見ているのか、私にはわからない。

「……若いときは……もっと研究がしたいとか、あらゆることを知りたいとか、色々思っていたはずなんだけどなぁ。こうして年をとると、なにも知らないまま過ごしてきたかもしれないと、たまに想うぜ」
「不満だった?」
「いや、満足だな」
「どうして? なにも、かなえられなかったのでしょうに」
「そんなことを私は言ってないぜ。確かにかなわないことばっかりだったけど、それ以上にかなったこともたくさんある」

 過去に憧憬する。
 それは本当の過去ではない。
 だが、彼女にとっては真実の過去なのだろう。

「『霊夢』には敵わなかったが、最後まで友達でいることは叶った。人生の密度では勝ったと想ってるけれど、あいつの親友になれたかどうかといえば怪しいな。かなったりかなわなかったり、確かにそればかりを繰り返した」

 そして真実を手に入れたものは、満たされる。
 満たされるということは……。

「それは私だけの人生さ。私だけが味わえる、味わいさ。それで良かったんだ」

 ……目的地にたどり着いたということだ。

「彼女のこと、後悔してるのか」

 唐突に切り出された、話題。

「私が、後悔している? いったい、誰に」
「あぁ、えーと……」

 口ごもる魔理沙の表情は、朝に見たパチェの表情に似ていた。
 ……彼女。
 魔理沙とパチェが語る、彼女。
 それはおそらく、同一人物なのだろう。

「博麗神社には、最近行ってるのか?」

 考えていると、魔理沙はまた不自然に話を変更した。
 深く考える気にはなれなかったから、私は質問に乗った。

「いえ。ここ十数年、顔を見せたことはないわ」
「私も最近はとんとんだ。娘ができてからは、まったく。代わりに娘が行っているが」
「昔のあなたたちみたいに?」
「そのようだ。それにな……娘の話じゃ、私らの知ってる『霊夢』と比べてえらく真面目みたいだな」
「『霊夢』からは想像が付かないわね。博麗の巫女が、真面目だなんて」
「だろ? おまけに、参拝客も適度に訪れるそうだ。信じられないぜ」

 笑う魔理沙の眼は、笑みとは程遠い。

「……残っちまうってのは、つらいなぁ」

 魔理沙はそう呟いて、口を閉じた。

 残る。
 なにが?
 自分が?
 他人が?
 なにが残るのが、つらい?

 私はなに一つ言葉にしなかった。
 言ったとして……なにが変わるのだろう?



 魔理沙は私を玄関まで送ってくれた。

「無理しなくてもいいわよ」
「たまには身体を動かさないとな。怠けているのもよくない」

 魔理沙の動きは緩慢ではあったが、まだまだ身体は健康なように見えた。

「これからも、妹と親友をよろしくね」
「よろしくされたぜ」

 明るい笑顔は、若いころのままだった。






 用事は終わった。
 だけれど、親友と魔法使いが私に言った言葉がひっかかる。

 彼女。後悔。

 だから私は、博麗神社に向かった。
 一つずつ巻き戻すために。
 記憶を探る。
 私の「時間」の場所を。






 ふわり、と空から地上に降り立つ。
 境内にたたずむ、人間が一人。
 手には、小ぶりの竹箒。
 身につけるは、赤と白を混ぜ合わせた巫女装束。
 風に揺れる赤いリボンが、少女らしく頭に結ばれている。
 穏やかな目線は、なんの感情も含まずにこちらを向いている。
 険しさも優しさも含まない表情で。
 なにもかもを拒絶しない、「空」を感じさせる気配。

 思わず、口元がほころぶ。
 なにも変わっていないことに。

 年代を経た神社にたたずむ、紅白の巫女。
 全てを肯定し、全てを受け入れない。
 永遠にひとりぼっちを受け継ぐ、幻想郷唯一の規律。
 博麗の巫女は、私の知るままの衣装で神社にたたずむ。

「久しぶりね、『霊夢』」

 そう呼びかけた私に、彼女は答えた。

「……あなたは、誰ですか?」

 わずかに、警戒する気配。
 霊力の流れが、かすかに発生する。

 博麗の巫女は全てを肯定する。
 だが、それは否定しないことと同義ではない。

 忘れていた。
 この博麗霊夢にとって私は、吸血鬼という悪魔以外のものではないのだ。

 苦笑する。
 驚きはしない。



 もう、以前に体験したことだから。
 悲しんでいいことではない。



 そう。
 博麗霊夢にこう言われるのは、初めてのことではない。
 それは、母親と娘のような外見に『霊夢』と私が分かれたころのこと。
 『霊夢』は力が衰えたような気がする、と私に言った。
 私は、じゃあそろそろ血を吸わせてもらおうかしらと言った気がする。無論『霊夢』には否定された。
 このまま衰えたら否定することもできなくなるわね、と彼女は苦笑した。

 その日が『霊夢』と出会った最後の日だった。

 数日後、博麗神社に訪れた私を迎え入れたのは若き日の『霊夢』だった。
 動揺する私は、彼女の視線に違和感を感じた。
 疑問の眼差し、警戒の眼差し。
 私の知る『霊夢』が、向けることのない眼差し。
 姿かたちは私の知る少女時代の『霊夢』そのもの。
 だが、彼女は私の知る『霊夢』ではなかった。

 お前は誰だ?
 私の問いかけに、彼女はこう返した。

「わたしは博麗霊夢。この博麗神社を管理する巫女です」

 そして、逆に問われた。

「あなたは……誰ですか?」

 息を呑む。
 少しづつ、理性がなくなっていく。

 どういうことだ……?
 『霊夢』はどこにいった!?
 偽者め!
 あらん限りの言葉で彼女に向かって絶叫し、また罵倒した。

 展開した弾幕には、殺気をこめた。
 だが、彼女はそれを全ていなした。
 彼女の周囲に霊力が収束する。
 ゆっくりとこちらに左手を掲げ、彼女は呟いた。

「夢想封印」

 その一言と共に、私の全身から力が抜ける。
 生まれでた力は、私の知る『霊夢』のものと変わらないものだった。
 ……彼女は、本当に博麗霊夢なのだ。
 そう確信すると同時、光弾が私に向かって炸裂した。

 加減されたからこそ、私は生きていられたのだろう。直撃のうえに、防護もしていない。いかに吸血鬼とはいえ、砕かれても仕方がない。
 だが、そうはならなかった。
 地面に倒れこんだ私の身体に、影が差す。
 彼女が、日傘を差して日光を遮ってくれたのだ。

「……理由をお話いただけますか?」

 なんて真摯な表情。
 本当に心から、こちらを気遣っているのだろう。
 私の知る彼女なら、同じ行動をしても違う態度をとるだろう。
 そんなことを思っていると、どうしてか笑いがこみ上げてきた。

「……もし?」
「……!」

 呼びかけられると同時、一転して顔をこわばらせる。

 もう、耐えられなかった。
 ここに、私の求める『霊夢』はもういないことがわかったから。

 日傘もささず、一目散に紅魔館へ飛んだ。
 その日は曇り空だったとはいえ、太陽の姿が消えたわけではなかった。
 かすかな陽の光は、私の身体を焼いていたようだ。
 ようだ、というのは前後の記憶が私にはないから。
 後に門番に聞いたところ、館へ戻った私の状態は言葉で表せないようなものだったらしい。気を使う能力をもつ門番だからこそ、私であると判断できたとも聞いた。
 門番に労いの言葉を与えながら、私の心は衝撃で不安定になっていた。

 『霊夢』の存在が、私にとって重要な位置にあったこと。
 『霊夢』の姿をした彼女が、私を追ってこなかったこと。
 そして……吸血鬼である私が、人間などに想いを寄せていたということ。

 力の衰えた巫女は、代替わりせざるを得ない。
 わかっている。
 見守るものは、変わってはならない。
 彼女は、博麗の巫女として永遠に幻想郷を見守る。
 それが、博麗霊夢と名乗る者の役割なのだ。

 ……けれど。
 そう理解できるのは、冷静な吸血鬼としての威厳だけ。
 恥ずかしくなるほどに幼いもうひとりの私は、抑えきれない感情に振り回された。
 あまりにも理不尽。
 あまりにも突然。
 あまりにもやりきれない。
 諦めもしないうちに、形だけを残して消えてしまった。
 手に入れることも、諦めることも、まだ選択できる。
 そんな、緩やかで愛しい時間があったと思えたのに。

 ……彼女は突然、自分勝手に消えた。
 彼女とまったく同じ、博麗霊夢という形骸だけを残して。
 私を覚えていない、想い人の残骸だけを残して。

 その後、霊夢の姿をした者が紅魔館に姿を見せることはなかった。
 彼女は……博麗霊夢は、私が誰なのか本当に知らなかったのだ。ならば訪ねてくることなど、あるはずがない。
 あるとすれば、あの紅い月の夜と同じ……博麗の巫女として私を調伏しようとするときだけだろう。

 それ以来、私が博麗神社に出入りすることはなくなっていた。



「どうして、黙っておられるのでしょう?」

 ……少し、過去に浸りすぎていたようだ。
 『霊夢』とも、真摯に私を気遣った霊夢とも異なる、博麗の巫女の怪訝な表情が視界に入る。

「私が誰か? ……誰に見えるかしら」
「幼女?」
「……それをあなたに言われるのは心外ね」
「ああ、申し訳ございません。わたくし、嘘がつけませんので」

 口元に手を当てて、うふふと笑う霊夢。

「私は、紅魔館の主よ」
「紅魔館? 泉の向こうにある……吸血鬼の館。確かそう聞いたことがありますわ」
「そう。聞いたことがあるのならば、話は早いわ」
「今日は巫女狩りには向きませんわよ? なかなかに快晴ですし」

 笑みとは異なり、油断の気配を見せない。

「そんなことはしないわ。あなたが吸血鬼狩りをしない限りね」
「ならば騒動はご勘弁を。わたし自身はやりたくなくても、役職は勤めなければなりませんので」
「そうね。覚えておくわ」
「ならばいったいなにをしに、ここへいらっしゃったのですか?」

 なにをしに?

「確認よ」
「確認、ですか」
「初恋よ、さようならっていうね」
「……? 吸血鬼さんのセンスは、よくわかりませんわ」

 困惑する巫女の顔を冷静に見られるほどに……時間は、経過していた。
 あの気持ちが初恋と呼べるものだったのかどうか、正直わからないのだが。

「でも、もうわかったわ」

 私と『霊夢』の一時が終わったという事実だけは、わかったのだった。

「はあ。それは、めでたいことですね」
「……また、ここに来てもいいかしら」

 ぼんやりした巫女は私に近づかず、けれど離れない。

「事前に連絡を取っていただければ、よろしいですよ」
「突然はダメなの?」
「わたしはかまいませんけれど……わたし以外の人はそうはいかないでしょうから」
「本当に、あなたは気にしていないの?」
「はい」

 にこやかな笑顔を浮かべる博麗霊夢に、私は指摘してあげる。

「じゃあ、どうしてあなたの全身には霊気がはりめぐらされているのかしら?」
「これなら触れることができませんでしょう? わたし、血を吸われて人外になる気はございませんので」

 苦笑する。
 あいも変わらず、近づかせるのに掴ませない。
 だが、私の知る『霊夢』はそんな予防策をとることはなかった。

 ……もしかしたら。
 『霊夢』とは。
 信頼しあえていたのかもしれないなんて。
 少女みたいな、甘い幻想を抱いてもいいのかしらね。

「……あなたは、先代に似ているわね」
「あら。先代のことをご存知なのですか?」
「ええ。ちょっとした……知り合いだったわ」

 私の生きる年月からすれば、わずかな時のみの知り合いだった。
 けれど、わずかな時だからこそ……印象深い。

「今度、お話していただけますか? わたしでない、わたしの話を」
「ええ。かまわないわ」

 おそらく、彼女はそれを拒まない。
 だが、変化することもないだろう。
 彼女は、博麗霊夢だから。
 永遠の巫女なのだから。

 私は……ここで笑いながらお茶を飲む日々は、もうないのかもしれないと想った。

「……今日はこの辺で、お暇させてもらうわ」
「そうですか。こちらとしても、そのほうがよろしいと思います。では、道中お気をつけて」
「ええ。……さようなら」

 飛ぶ前に、もう一度周囲を見渡す。
 私以外の気配は、人間のみ。
 おそらく、神社への参拝客だろう。
 ……ここは、そういう場所になったのだ。
 いや、元々はそういう場所だったのかもしれない。

 去り際に、ちらりと後ろを振り向く。
 彼女はただ掃除をしていた。
 なにごともなかったかのように。






 夜も更けた。
 鳥のように枝に留(と)まり、木に寄りかかる。
 日傘を差したまま、物思いにふける。

 『霊夢』は、似ている姿の他人になっていた。
 魔理沙は自分に似た人間に、自分でない面白さを感じていた。

 過去の記憶と現在の二人を照らし合わせて時の流れを感じながら、解けない疑問を思い返す。
 パチェと魔理沙が私に言った、後悔しているかもしれない彼女のこと。
 彼女とは、『霊夢』のことか魔理沙のことか。
 魔理沙とパチェが語る人物は、同一の者であろう。
 ならば、『霊夢』か。
 ……違う。
 違うのは、初めからわかっていた。
 誰のことなのかも、察しはついていた。
 だから、惚(ほう)けた。
 惚(ほう)けていなければ、彼女が消えていくから。

 失ったことを、後悔しているのか。
 それはわからない。
 ただ、完璧な従者であった彼女は……能力も、技能も、血統も、なにひとつ誰にも受け継がせることなく去っていった。
 唯一残したのは、いつかは消える私との記憶だけだった。

 生前の彼女と交わした会話を思い出す。
 宴会の終わり、忙しく立ち回る彼女に私はこう言った。
 もう少し、楽にしてもいいんじゃない?
 そうしたら、彼女は笑いながらこう返答した。

「明日には明日のことがあります。今日のことは今日やらねば、明日へ楽しみや寂しさを残してしまいます。それは、明日を意識する力をなくしてしまうことになりますから」

 区切りをつけるのが大切だと、彼女は言っていた。
 だから彼女は、ほとんどなにも残さず去っていった。
 残したのはわずかばかりの持ち物と、過去という名の記憶だけだった。

 そう。
 彼女がいるのは、もう過去の記憶の中だけなのだった。
 そして記憶の中の彼女は、次第に薄れてゆく必然を定められている。

「思えば……あなたはずいぶんと早く逝ってしまったのね」

 それが人間の生命だ。
 それだけのこと。
 そうあるしかない運命。
 人間の命は儚い。
 あなたはあんなに同属から嫌悪されながら。
 そうであることをやめなかった。

 それはなんのためかしら。
 そうまでして、どうしてあなたは人間であろうとしたのかしら。



 私を恐れず逆に見返した、人間達の瞳と姿を思い返す。



 同じような姿であり続ける。
 同じ姿で存在を続ける。
 変わらない日常と共に。
 姿形と日常だけが、記憶と思考が風化しても繰り返される。
 中身は他人で。
 その在り方だけを定められた存在。

 だからあなたは、私の傀儡とならなかったのかしら。
 それはあなたのためにも、私のためにもならないと思ったから。
 私に血を吸わせなかったのかしら。

 変化なき永遠は、私に似合わないと知っていたから。



 子孫に後を継がせる。
 受け継がれていく、人間らしい自分残し。
 子供と折り合いながら、なにかを残そうとする。
 少しづつ変化しているのに、どこかで過去がちらつく日々。
 混じりあいながら、変わりゆく。
 だが、それは緩やかな歩み。

 だからあなたは、自分の子孫を残さなかったのかしら。
 人間らしい運命と時間に従う存在を、私が耐えられなくなると知っていたから。
 あなたは自分の欠片も残さなかったのかしら。

 普通に変化していくだけでは、私が満たされないと知っていたから。



 そんなあなたは、私になにを見ていたのかしら。
 なにを求めていたのかしら。
 あなたが主として認めた私は、いったいどんな存在だったのかしら。

「ねえ、お前は知ってる?」

 懐中時計。
 数少ない、彼女の残し物。

 秒針は動かない。
 彼女と同じく時を止めた懐中時計。
 止まってしまった、あの日のまま。
 完全に止まってしまった、瀟洒な時計。

 時計が止まったあの日は、満月だった。
 私の身体に力が満ちているときに、わざわざ止まらなくてもいいだろうに。

 人間の身体は易々と壊れる。
 人間の精神も易々と壊れる。
 そしてそれは、どちらもその人間の死だろう。

 ひどく簡単な回答だ。
 この懐中時計と同じ。

 どんなに愛し、求めても。
 いつか止まるときが来る。
 人間とは、そうしたものだということ。

 だから彼女は。
 動き続けて。
 満月の夜に止まった。

 その時はじめて。
 彼女は完全で瀟洒な従者になった。



 日傘を傾けて、月を見上げる。
 完全な円形を保っているのにどこか不安定な力が、私に流れこむのを感じる。
 わからないものには見分けがつかない、満月に良く似た形。

「ああ……そういえば今日は……」

 記憶が揺さぶられる。
 だから私は日傘を投げ捨てて。
 月の光を浴びる。

 懐かしく。
 満たされない。
 曖昧で。
 私でない。

 そう。
 私でないものは。
 私がいる限り。
 いつかは、離れていくものなのだ。

 満月の明日は。
 十六夜なのだ。

 私は。
 そうした日々に、逆らうことはできないのだ。

 完全で瀟洒な従者は。
 懐中時計と同じように。
 もう。
 進むことはできないのだ。

 けれど。
 月そのものである私には……また満ちるときが来る。
 終わりなき月の光が、何度も何度も降り注ぐ。

 彼女は十六夜。
 私は月。

 いつかすれ違うのは……当然のことだったのだ。
 そして、欠けていく月がまた満ちるのも……当然のことなのだ。

 新月と満月。
 満ち、欠け、不安定な形に変化し続ける。
 永遠に。
 永遠に、幼い子供のように。
 同じことを、繰り返す。
 永遠に。
 それが月の……「運命」だ。






 紅魔館の門を抜け庭園に入る。
 館の入り口に影が見える、誰かが待っていたようだ。
 近づくと、よく知った家族が二人。

「おかえりなさい」

 出迎えた親友は心配しているのか怒っているのかわかりにくい、あいまいな表情を浮かべていた。

「お帰りなさい、お姉さま」

 妹も出迎えてくれた。

「ただいま」

 羽を収め、親友と妹に微笑む。

「ねえ、パチェ」
「なにかしら」
「図書館のメイドは足りているかしら」
「……? 足りてないといえば、足りてないけれど」

 ふふ、と笑いながら私は館を見上げる。
 以前ほど広くはないけれど、それでも複雑なこの屋敷。
 私の住まい。
 種族の象徴。

「じゃあ、増員しましょう。そうなれば、監督する者がいるわね」

 眼を見開くパチェの驚きを横目で楽しみながら、私は言葉を続けた。

「新しいメイド長を、選びましょう。今の紅魔館を整える、優秀な者をね」
「レミィ……」
「お姉さま……」

 二人に意外な顔をされるほど、私は現実との妥協が取れていなかったようだ。
 憧憬ばかり……胸のうちに咲いた過去に、憧れてばかりいた。

 だが。
 現実の花は、もう散った。
 散った花は、現実を変えはしない。
 美しさとして、思い出の中にあるだけなのだ。
 十六夜に生まれた彼女は、昨夜に戻ることを望んでいたのではない。十六夜の夜に咲く存在……月を従える悪魔に添う者であろうとしたのだ。

 なんのことはない。
 私は私であればよかった。
 だからこそあの日々があった。
 でも、あの日々はもうない。

 なくなったものは美しい。
 美しいけれど、なくなったものは戻らないから美しいのだ。
 時は巻き戻せない。
 なら昨夜に戻るのではなく、新しい花が咲くのを見るほうが楽しいだろう。

 それがまた散るとしても。
 人間はまた咲くのだろう。

 私はそれを見るのが楽しみだ。
 なぜなら私は、人間を糧とする吸血鬼だから。
 咲き続け、散り続ける、その一瞬の生命を吸い上げる。
 吸血鬼は、人間の根源である血のみを吸い上げる。
 それは味わうため。
 けれど。
 吸い上げるなら、高等なほうが好ましい。
 人間は、存在を固定化することができない。求め続けなければ、存在は変容していく。
 私と異なり、自身の本質を求めてあがき続けなければならない。
 私に名を与えられた彼女は、吸血鬼の私に認められるために完璧で瀟洒であろうとした。
 そして結果、彼女は私に血を吸わせることはなかった。

 彼女は。
 私に血を吸われない人間だからこそ。
 彼女であれたのだと気づいて。

 不覚にも。
 人間がすばらしいなどと、想ってしまって。

 それは違うのに。
 人間がすばらしいのではない。
 彼女がすばらしかっただけ。
 そして、もういない。
 私だけの彼女はもう……私の心の中にしか、いない。

 人間。
 それは、嗜好品。
 私はそれを見下ろし。
 彼らとともにある。
 恐怖の象徴として。

「パチェ」
「なに?」
「惚(ほう)けている間、色々と任せて悪かったわ。ありがとう」
「なによ、いきなり……レミィ、大丈夫?」
「大丈夫よ。むしろ、爽快ね」

 月の光が、こんなにも染み渡る。

「ねえフランドール。私、忘れていたわ」
「忘れてた?」
「月の光が、こんなにも力を与えてくれるものだということを。忘れていたみたいなの」

 月は私。
 それを遮るのは、私ではない。

 私は。
 永遠に紅い、幼き月だ。

 それ以外の何者でもない。
 そして、そうであることが。
 私がすごした変化を、肯定できる唯一の方法。

 また変化がやってくるだろう。
 それは過去を押し流すかもしれない。

 だが、過去はもうない
 もう、未来しかない。

 永遠に幼く。
 紅い月とともに。
 人間の成長を。
 人間の活力を。
 嗜好する。

 私のために。
 自分のために。
 楽しむために。

「……私って、わがままだったのね」

 呟きに対する二人の反応は、同じようなもの。

「……今更気づいたの?」
「ええ。今更」

 ため息をつくパチュリー、苦笑する妹、微笑む私。
 頭をあげたパチュリーは、どこか遠い眼差しをしながら口を開いた。

「わがままで気ままなふりした厳格なあなただから、彼女は甘えさせたのかしら」
「違うわよ。私は、わがままで気まま。厳格なんかであるものですか」

 そうでなければ、力のある人間を手元に残さないはずがない。
 でも私は彼女を人間のまま、亡くした。
 吸血鬼と人間は、遠くて近い存在。
 私たちはだからこそ出会え、忘れることのない凝縮した一瞬をすごすことができた。
 だからこそ私は、彼女を見殺しにしたのだ。
 吸血鬼となった彼女には、もう甘えられないから。
 わがまま気ままに、彼女の意を汲んでやったのだ。
 私の記憶にあるだけでいいと言った瀟洒な従者の願いを、聞き入れてやったのだ。

 彼女とどんな時間を過ごしたか、詳しいことは忘れてしまったけれど。
 共に生きた時間の温もりは、消えることなく燈(とも)っている。

 この温もりは、いつか消えるものだろう。
 けれど、新しい温もりを灯すことはできる。
 彼女と生きた時間の先を、私は過ごしていかなければならない。
 暖かい温もりは、いつか記憶の断片と化していく。

 だから彼女は。
 過去を現実においていかなかったのだ。
 新たな日々を、私に過ごさせるために。

 それは、優雅に紅茶を飲む日々ではないかもしれない。
 それは、弾幕ごっこに悦を見出す日々ではないかもしれない。
 それは、みなとともに宴会を催す日々ではないかもしれない。
 それらは、もう無くなってしまったものなのかもしれない。

 でも。
 それでいい。
 全ては変わりゆく。
 変わらなければ、意味はない。
 私はかつてあなたに、そう言った。
 だからあなたは変わる存在であり続けた。
 人間として。
 だから私は、あなたと共にあった姿であり続ける。
 あなたに似たあなたでない誰かとの、新しい一瞬を過ごすために。

 ……ああ。
 どうしてこうも私は。
 人間の生命が愛しい悪魔なのだろう。
 彼らの苦しみを糧とする吸血鬼なのだろう。

 私は、わがままで気まま。
 人間にとっても、妖怪にとっても、それを変えてはならないのだ。

「だからそんな私をしっかり管理してくれる、うまい「時間」の使い手をメイド長にしなくてはね」

 機械仕掛けのように規則正しい「運命」よりも。
 定かでない「時間」の面白みを求める。

「さあ、二人とも中に入りましょう」

 二人をうながして紅魔館に入る。
 怪訝な顔の二人には、あとで色々と話さなければならないだろう。
 私のこと、魔理沙のこと、これからのこと、諸々だ。
 そして全てが動き出せば、忙しくなるだろう。騒がしくもなるだろう。
 そうしたら。
 ティータイムが恋しくなって。
 紅茶が美味しくなるかもしれない。

(……)

 そう、ひとつ明確に覚えていることがある。
 喉元の渇きをいやす手段にしか過ぎなかった紅茶を、愛しい優雅な一時へと変えてくれたのは彼女だった。
 吸血鬼という「運命」の下に生まれた私。
 その威厳の下に隠された、幼い私のための「時間」を作ってくれたのは彼女だった。

 吸血鬼としてではない。
 レミリア・スカーレットという少女のために。
 温かい紅茶と緩やかなティータイムを作ってくれたのは、彼女だったのだ。

 そんな一時を、また味わうために。
 一瞬の「時間」を求めて。
 私は「運命」を操る。

 いつか満ちる、月の一瞬を信じて。
 その可能性があることを、信じさせてくれた。
 十六夜咲夜を信じて。

 私は……。
 紅い悪魔で、あり続ける。