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■   ほんの些細な綻(ほころ)びを   ■

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 生まれてこのかたフランドール・スカーレットは、「それ」をしてもらったことがないことに気づいた。
 「それ」は愛しい人にやってもらうのだと本に書いてあった。
 だが、フランドールは生まれてこのかた「それ」をしてもらったことがなかった。
 愛しいという感情は、フランドールにはわからなかった。
 ただ、本には自分にとっての肉親がそれに当たりやすいと書いてあった。
 つまりフランドールの場合、「それ」をしてもらう相手は姉に当たるということだろう。
 そして姉は、フランドールに「それ」を――少なくとも、物心がついて後は――してくれていなかった。
 本に書いてあるとおりなら、「それ」は幼いころに行われることらしい。
 「それ」に似た触れ合いは大人になってからも行うらしいが、意味合いが異なるようだ。
 今のフランドールには、大人の触れ合いは関係がないと思えたのでそちらは除外した。
 実のところ「それ」を行うのは、とても珍しいことなのではないだろうか。
 そう思ったので、姉ほどに親しいわけではない顔見知りにフランドールは聞いてみることにした。
 「それ」をされたことがあるかということを。



 フランドールはパチュリーの元で魔法の講義を受けていた。
 これは最近、ある人物の影響で魔法を使うことに興味が沸いていたからであった。
 フランドールは魔法少女としての才能をもっており、家には魔女が住んでいるので都合がよかったからでもある。
 しばらくして、パチュリーの講義を一通り聴き終える。
 本をしまい始めるパチュリーと小悪魔に、フランドールは聞いてみた。
 突然の話だけれど、と切り出して。
 愛しい人に「それ」をされたことがあるかと。
 小悪魔はするりと、あると答えた。
 ただ彼女の生まれた地方はかなり人間的な生活を営んでいたらしく、他の悪魔と比べても甘くゆるやかな育てられ方をしてもらったようだと語っていた。
 彼女が言うには、悪魔的に見れば「それ」を行うことは珍しいことだと言うことらしかった。
 パチュリーは、しばらく黙してなにも語らなかった。
 そしておもむろに口を開いて、こう言った。

 ――獅子はわが子を千尋(せんじん)の谷から突き落とすというわ、と。

 フランドールには、その言葉の意味はわかっても、なぜその言葉をパチュリーが言ったのかがわからなかった。
 フランドールの当惑を無視して、続けてパチュリーはこう言った。
 「それ」が出来るからといって、する者ばかりでもないとも言った。
 それはフランドールにも容易に理解できた。だからこそ、魔女と悪魔に聞いたのだから。
 最後に、パチュリーはこう言った。

 ――「それ」をしてくれるからといって、親しいという証明にはならないわ。

 フランドールにはパチュリーがなにを言いたいのか、今ひとつ実感できなかった。
 ただ、一つわかったことはあった。
 姉が「それ」をしてくれなかった時間は495年あって、だがそれをもって姉がフランドールを親しく見ていないという証明にはならないということだった。
 けれど、姉はそんな些細な「それ」を495年もの間することはなかったのだとも気づいた。



 姉の部屋に行く前に十六夜咲夜の姿を見かけたので、近づく。
 うやうやしく礼をするメイドに姉の所在を聞いてみる。
 姉は自室で本を読んでいるとの事だった。
 仕事がありますので、と告げてその場を離れようとする咲夜にフランドールは質問する。
 今までと同じように。自分にとって、どこか縁遠く、近しさを感じる彼女へ。
 愛しい人に「それ」をされたことがあるかと。
 咲夜は不思議な表情を浮かべたあと、眼を閉じた。ゆっくりと口を開き、答えた。
 「それ」をされたことはあるだろう、と。
 記憶にないほどに幼いころだが、「それ」をされたことはあるだろうと答えた。
 それはどれくらい昔なの、とフランドールは問う。
 咲夜は答える。
 記憶が朧な、物心つかない頃だと。
 自分の名前も呟けないほどの、幼いころであると答えた。

 ――お姉さまは、部屋にいるの? 

 フランドールは、どこか硬い声で咲夜に問う。
 フランドールに咲夜は、そのはずですと返答した。
 そう、と呟いてフランドールは咲夜に背を向けた。
 背中の羽を震わせ、振り返ることなくレミリアの部屋へと向かった。
 咲夜は、静かにフランドールに背を向けてその場を立ち去った。



 小さなきしみ音とともに、フランドールはドアを開ける。
 ドアの向こうの世界で、姉は静かに本を読んでいた。
 止まったような時間の中、静かな眼差しを手元の本に注いでいる。
 ドアを開けたままフランドールがたたずんでいると、閉めなさいとレミリアが口を開いた。
 目元を本に固定したまま、フランドールに一瞥することもない。
 部屋の中央に歩み寄るフランドールに対して、なにか用かしらとレミリアが手元の本を閉じながら問う。
 今度はレミリアもフランドールに視線を向ける。
 だが、表情を変えることはない。
 問いかけられたフランドールは、黙したまま佇んだ。
 不思議に思ったレミリアが椅子から立ち上がり、近づく。
 レミリアはなにか言いかけたが、フランドールの行動によってそれは制止された。
 ぎゅっと、妹は姉の身体を抱きしめた。
 自分より少しだけ大きい、けれど柔らかく幼い身体。
 妹は、姉に問いかけた。

 ――お姉さま、怖いでしょ? 今にも、壊されるかもしれないから。

 そう、問いかけた。

 レミリアは黙したまま、フランドールに身体を抱きしめられる。
 ゆっくりと、フランドールの両手に力が込められていく。

 表情を変えぬまま、レミリアは返答する。
 恐ろしくない、と。
 また、付け加える。
 あなたのすることは、私にはわかってしまうから。恐ろしくない。
 どこか、醒めた口調で。
 いつものアレね、とフランドールは口元に笑みを浮かべながら呟いた。
 どこか嘲るような、軽蔑するような笑みだった。

 ――お姉さまは、本当に口車が上手だわ。

 フランドールは、抱きしめた姉へ嘲りをぶつける。

 ――わかってるわ。そう、わかってる。お姉さまはわたしが怖いのよ。

 レミリアは返答する。
 オウムのように、同じ返答を続ける。
 怖くない、と。
 フランドールは、そんな姉を嘲笑する。
 そして、レミリアは自分を恐れているのだと呟く。頑なな声で。
 静かな、面白がるような、からかうような、嘘のような。七色の声で、フランドールは呟き続ける。。
 零れるような、子供の声で。

 ――だから、触ってもくれないのね?

 そうした弱々しい呟きで、言葉にして伝えようとした。

 495年間、誰にも触れられなかった少女。
 頭を撫でられることも、身体を抱かれることも、温もりに触れることもなかった少女。

 ――妹に抱かれるのを嫌がる姉が、どこにいるというの?

 レミリアの声は、冷静にふるまおうとしていた。
 だが、その響きはかすかに震えたものだった。

 ――でもお姉さまは、わたしを閉じ込めたよね。

 反するように、フランドールの声は湿り気を帯びていく。
 レミリアは口に出さないまま、フランドールに抱きしめられる。
 このまま、抱き返せればいいのに。
 そう口に出せないまま、妹に抱きしめられる。
 抱きしめられ続ける。

 何も変わらない檻の中で自分とだけ戯れていれば、彼女は変化など知ることはなかった。
 変化は幸福と不幸を気づかせる。
 過去と未来を浮かび上がらせる。

 些細な幸せだ。
 「抱いて」あげるだけのことだ。
 なのに――。

 突然、フランドールの力がレミリアから解き放たれる。
 微笑とともに。

 ――ごめんねお姉さま。今のは……冗談だよ?

 そう言い残して、吸血鬼の妹君はレミリアの部屋から軽やかに出て行った。



 窓のない部屋。
 月の光もささない部屋のなかで、レミリアは見上げる。
 どこか遠くを。
 今までの過去を。
 そして、妹へ触れた先にある未来を。

 分裂し壊れた心は、愛情を受け止めた瞬間に再び違う意味で壊れる。
 愛されることは、当たり前のことではない。
 どんなに深い関係とつながりがあっても、当たり前で在ることも、在り続けることなども、何一つとしてない。

 壊れ続けたフランドールの心は、当たり前の愛情を受け止めることが出来ない。
 だから魔理沙は弾幕『ごっこ』で彼女を癒し、パチェリーは知識で心をそらし、咲夜は距離をとり続け人肌の温もりを覚えさせない。
 彼女たちは恐れている。
 フランドールが本当の意味で、壊れてしまうことを恐れている。
 そして、自分が壊してしまうことを恐れている。
 ……苦笑する。
 そんなはずはないのに、とレミリアは苦笑する。
 恐れているのは、姉である自分だけなのだと苦笑する。

 妹は吸血鬼の資格を持って生まれてきた。
 けれど、彼女は吸血鬼として振舞うことは出来ない。
 なぜなら彼女には、人間の運命を操ることができないのだから。
 同属を増やすことも、意志を曲げることも、何一つ出来ないのだから。
 彼女に許されたのは、「壊す」ことだけなのだから。

 それは他人にも自分にも当てはまる。
 壊し続けていれば、自分が壊す存在だということには気づかない。
 だから姉として、レミリアは「それ」をするわけにはいかない。
 いや、「それ」のみならず「それ」に類する行為を妹にするわけにはいかない。
 暖かく抱きしめ、愛しいものを「抱きしめ続ける」ことをフランドールの心に芽生えさせてはならない。

 抱きしめた温もりは――抱きしめられた愛しさは――いつか、冷たさへと変化する。
 何度も何度も、長い時を生きる吸血鬼に「それ」はやってくる。

 レミリアは恐い。妹が壊れることが、恐ろしい。

 フランドールは世界を壊すために、その生を定められた。
 ならばなにかを生みだそうなどという、悲しい運命を気づかせてはならない。

 彼女は吸血鬼であって。
 人間ではないのだから。

 ――「愛する」なんてことを、覚えさせてはならないのだ。

 自嘲する。なんて……自分勝手な姉なのだろう、と。



 翌日訪ねてきた魔理沙に、フランドールは飛びつく。
 姉に抱きついた力より数百倍の弱さで、ギュッとしがみつく。
 それだけしかこめられない想いで、抱きしめて呟く。

 ――ねえ、魔理沙は家族の誰かからこんなふうに抱きしめられたことがある?

 魔理沙に問いかけると不思議そうな顔をされた後、頭をなでられた。
 妙に心が浮き立ったので、フランドールは弾幕ごっこを始めようと魔理沙に告げた。
 弾幕を展開しながら、フランドールはふと気づいた。
 自分が魔理沙に抱きつくことは多いんだなぁ、と。
 魔理沙が自分を抱きしめてくれることは滅多にないんだなぁ、と。
 でも魔理沙は他人に抱きついたりすることが元々少ないのかなぁと思えたので、考えるのは止めた。

 それに、今、魔理沙にしてもらいたい「それ」は姉に求めた「それ」とは異なる気もして……混乱する。

 はっきりしない顔だな、と魔理沙が言ったのでフランドールは、そんなことはないと返答した。

 ――今日も思いっきり弾幕ごっこに付き合うぜ。コンテニュー不可の一回勝負。待ったは無しだぜ?

 魔理沙の言葉に、フランドールは呟く。

 ――じゃあ……わたしに触れちゃあ、いけないのね?

 そう、呟いて。
 当たり前の弾幕『ごっこ』を、始めた。