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■ まどろみの色 ■

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 まどろむ。
 窓から見える世界は紅色。
 この国の空は、母国よりも綺麗だと思うことがある。
 茜色が射し込む窓辺から、遠く高い室内に階下の喧騒が届く。
 見なくてもわかる。下の通路では、講義を終えた学生たちがごった返して帰路につこうとしているのだろう。
 マエリベリー・ハーンはこの大学に入学して以来、あの波にもまれたことは一度か二度しかなかった。
 だから、あの波がとても不愉快であることしか覚えていない。
 それに、マエリベリー――数少ない友人にはメリーと呼ばれている――と呼ばれる彼女が群集嫌いだという噂は、学内でも一、二を争う才女という事実とともに広まっていた。
 彼女をこの時間に誘い出す友人は、数えるほどしかいない。
 そう。彼女に容易に近づく人は限られている。
 異国文化が珍しくなくなり、しかし国固有の文化を保つことに誇りを持てるようになった時代。
 メリーのような海外からの学生は、まったくもって珍しいものではなくなっていた。
 しかし、それでも、だ。例外というものはある。
 彼女、メリー――この名で呼ぶ知人は、本当に片手で事足りる――は、そうした例外の中に含まれる一人だったのだ。



 メリーはちらりと眼を窓からそらす。
 視界に入るのは、十二の数字が刻まれた文字盤の上。つまり時計だった。
 この部屋にやってくるものはあまりいない。
 岡崎教授という講師がたまに使っているようだが、その講師は怪しげな噂を持つ人物なため、結果ここによりつく人はほぼいないという状態になっている。
 このうさんくさい場所で待ち合わせをするのが、メリーにとってはたまの約束事となっていた。
 窓際から見える、美しい夕日とともに。

「……」

 音もない室内。
 世界は色だけが時間の変化を告げる。
 夕暮れは紅く、蒼と黒が交じり合っていく。
 メリーの瞳が、黄金色の瞳が、紅の色に染められる。
 不安定な色彩は、どこか人の心を不安にする。
 それは、人の心が安定でないゆえだろうか。

 そしてメリーがその風景を見続けるのは、その不安さがどこか心地良いからだった。
 視線を向ければ、どこか親しみを感じる紅い風景。

 だがそれは、人が安心してはいけない色をどこかに内包しているようにも感じる。
 それでもメリーは紅い風景を見続ける。
 遠いどこかを見るように。

「……?」

 ふっと。
 唇が動いた。

 すうっ、っとメリーは息を吸い込む。
 黄昏の夕日に向けて、なんとはなしに口ずさむ。

 遠い昔にどこかの国で歌われた、合成でない羊を題材とした歌。
 同じ名前のメリーと呼ばれる少女が体験した、暖かい交流の物語。

 いつか少女は一人で気づく。
 自分が羊とは違う世界の住人なのだと。

 少しばかり恥ずかしい一人舞台。
 だが、彼女の友人は遅刻の常習犯だ。今日もまた遅れてくるのだろう。
 短いテンポのこの曲なら、来る前に歌い終える。
 メリーは歌を続ける。
 かすかなかすかな暖かみを吐息に込めて、人と異種の交流を風に乗せる。

 ――そして約束の時間と同時に、メリーの声が途絶える。

 一通り歌い終え、一息つく。
 時計を見ると、待ち合わせの時間を過ぎた秒針が見えた。

「やっぱり、遅れてるわね」
「いえ、もう来てるわよ」
「!?」

 ひょっこり飛び出してきた一言に、メリーは心臓が跳ね上がるかと錯覚した。
 驚きの勢いを保ちながら、声の主を探す。

「おはよ、メリー」

 今は昼でしょおはようなんておかしいわ、今のメリーはそんな悠長なことを言っていられる心境ではなかった。
 なぜなら、見られたからである。
 いや、見られたかもしれないからである。
 しかも最も見られてはいけない相手に。

「お、おはよ蓮子」

 動揺からか、つられて時間のずれた挨拶を返してしまう。

「メリー、今は夕暮れ時よ。正確には十七時三三分四三秒だけどね。おはようじゃおかしいわ」
「あ、うん、そうね、そうよね」

 動揺を顔に残したまま、蓮子の言葉に頷く。

「あ、そういえばさメリー」
「なに?」
「綺麗な声だとは知ってたけど、歌うともっとよくなるんだね」

 にこやかな蓮子の言葉に。
 メリーは。
 今度こそ。
 頷ずくこともできずに。

「……な、ななななななっ!?」

 熟れたトマトのように顔を真っ赤にして、意味のない言葉を羅列する以外できなかった。
 そんな真っ赤になって驚くメリーを、蓮子は見つめている。口元にかすかな微笑を浮かべながら。

「――!?」

 メリーはなにかを言おうとするが、まだ動揺が収まらずきちんとした言葉にならない。
 蓮子はそんなメリーの表情を見て、

「おぉ」

 と呟いたのかどうかは定かでないがそんなそぶりを見せて、

「はい、ちーず」

 黙々とカメラのスイッチを押した。
 カシャっと無機質な音をたてないで、最新鋭のデジカメが、メリーの赤顔を写真データに変換する。
 それに気づいたメリーは恥ずかし顔を一転して怒り顔に変え、蓮子につかみかかろうと立ちあがる。

「れ、蓮子!? あなた、いったい……!」

 空を切るメリーの手をながめながら、蓮子は目的であるカメラをつかませない。

「だめだよメリー。日本語は難しいんだから、意識的に発音をきちんとしないと」
「誰のせいだと思ってるのよ!?」

 どたばたどたばた走り回りながらデータ保持とデータ回収に躍起になる二人。
 階下の庭でくつろぐ生徒たちがこの風景を見れば、おそろくとても驚き言葉につまり、やがて納得と諦めのため息を吐くことだろう。
 宇佐美蓮子とマエリベリー・ハーンは、この大学でも有名な才女として通っている。それが驚き言葉につまる理由。
 そしてもう一つ。
 彼女たちはそんな才女でありながら、どこのクラブにも属さず独自の活動を行っていると言われている。
 傍目から見れば怠惰をむさぼるそのサークルを、所属者二人はこう名づけている。
 『秘封倶楽部』、と。



「でさぁ、メリー。いい加減人生再起しないと損するばかりだと思うよ?」
「諸悪の根源に言われたくないわ」

 机に突っ伏したままのメリーが恨み言を呟く。
 自業自得でもあるのだが、そのあたりは人の心の不安定さに軍配が上がる。

「あ、ドラマかアニメでかぶれたようなセリフ言って。今時そんな言い方する人いないよ?」

 蓮子はそんな采配に負けず、覚えてはいけない日本の知識を教え込もうとする。
 ある意味正しい対処だが、結局蓮子も知っているということになるので、やはり正しい知識なのかもしれない。

「……まあ、いいわ」

 諦め顔で吐息をつくのは、いつもメリーのほうが早い。
 なぜなら蓮子が屈服するときは、本当に自分が悪いと思ったときだけだからだ。

「諦めが早いなぁ、メリー。そんなんだからいつも最後の最後で弱気になっちゃうんだよ」
「最初の最初でピンチを作り出すあなたに言われたくはないわ」
「チャンスは危険なものなのよ、メリー」
「作り出した危険はチャンスって言わないと思うわ」

 メリーが当然のような当然でない言葉を言った後、蓮子はまた唐突に言った。

「で、なんでまたあの歌なわけ?」

 一瞬メリーは蓮子がなにを言ったのか把握できなかった。

「歌? 歌って、なんのこ……」

 そこまで言ってメリーは内心で理解したが、蓮子はそれに気づかず疑問に受け答えた。

「さっき歌っていた歌。一人で、しかもメリーがあの歌を歌うのは、なんか意外な気がして」

 そこに先ほどのような軽薄な雰囲気はない。純粋な疑問から来ている質問のようだ。
 メリーは言葉に詰まる。

「どうして、かしらね」

 そう呟いたのは、メリー自身にもどうして先ほどの歌を呟いたのか理解できなかったからだ。

「わからないの?」
「突然、ね。口が動いたの。どうしてかは、わからないんだけれど……」

 もしかしたら、と付け加えてメリーは蓮子から視線をそらす。
 視線の先にあるのは、開けられた窓。
 さきほどまで見ていた、紅い紅い空。
 夕暮れの、紅すぎる不安な色。

「……あの曖昧な空を見ているとね、自分も曖昧になるような気がするのよ」

 なぜあの歌なのか、答えはメリーにもわからない。
 わかるのは、なぜあの歌を歌ったのかという心境を言葉にすることだけ。
 そして蓮子に出来るのは、メリーの言葉を自分なりに咀嚼して受け返すことだけ。

「メリーって詩人よね」
「ねえ蓮子。やっぱり馬鹿にしてるでしょ」

 詩人、という表現は科学を専攻しているものにとっては嬉しくない言葉だった。
 だが、蓮子は悪びれることなく言葉を続ける。
 重ねるが、蓮子が誤るのは自分が悪いと思ったときだけだ。

「いやいや、これは本当。少なくともわたしよりは繊細だわ」

 蓮子より繊細な人はいくらでもいるじゃない、なんて言うのはさすがに思うだけにした。
 そして、そんな蓮子の純粋さにメリーは安らぎを覚えた。

「メリーはなにね。友達とかあまりいないもんね。お姉さまタイプだし」
「いや、なにまた突然」
「友達がいないから、ヒツジの友達が欲しいのかなって思うしかないじゃない?」
「なんで、ないじゃない? になるのかがわからないんだけど。すっごく納得いかないわ」
「でも、下級生にそう見られているのは知ってるでしょ?」
「……う、ん……」

 下級生の噂というものは、あまり関心のないメリーの耳にも入ってくる。
 なぜならその当事者であるからでもあるし、そうした噂話を好む友人が一人いれば大なり小なりの誇張で耳に入ってしまうからだ。
 耳に入ってくるし現実に起こっているから受け入れる、そんな人格者なら生きているのがすごく楽だろう。
 そしてメリーは楽な人生を送っているとは全面的には思っていない。
 だからメリーは、その噂の発生源にやり返す。

「あれね。下級生の人気という意味では蓮子も凄いわね。むしろわたしより上よ。よく話題になってるのを耳に入れるわ」
「わたしの場合、お姉さまっていうよりお姉さんって感じだもん。メリーのとはちょっと違うのよ」

 あっさりと蓮子は自分の立場を認めた。そのあっさりさが、メリーには少しばかり気に入らない。
 なんでそんなに環境に適応できるのか、メリーは目の前の友人の気持ち悪さを改めて再発見した。
 目だけじゃない、その適応能力の高さも薄気味悪い。

「わたしはそんなに上手く、器用にできないわ」

 薄く隔てられた壁。
 幼い頃から感じる違和感。

 他人と異なる能力を持つ、そんな意味合いで感じる壁ではなかった。
 メリーはもっと、根本的に他人との距離が『夕闇』のなかにいるような気分になるのだった。

 太陽でも月でもない、あいまいな時間。

「自分が自分じゃなくて、そう……人間なのか、って思うときがあるわ」
「人でしょ?」

 蓮子はすっぽりとメリーの言葉を包み込む。

「そうかしら?」
「メリー、自虐的な言葉は人を傷つけることの方が多いんだよ。メリーが人じゃなかったら、わたしはいったいどうなっちゃうの?」
「気持ち悪い眼を持つ人じゃない?」
「同じように、メリーも気持ち悪い眼を持つ人なんじゃないの?」
「そうね……わたしは、『人間』よね」
「わたしらみたいな人、そう少なくないって。まあ、メリーみたいな人は確かに少ないって聞くけど」

 蓮子やメリーのような特殊な能力を持つものは、過去の社会では弾圧され抹殺される役割をになわされていた。
 しかし人間も馬鹿ではない。いややはり馬鹿ではあるが、その力を利用して飼い殺したほうが良いと気づいたのは後の人々にとって幸いであった。
 数世紀の後に人権組合などというものが出来て、彼女たちの立場は過剰なほどに保護されることになるからである。
 蓮子やメリーの時代はそんな「ノーマル」「アブノーマル」の時代も過ぎた、いわゆる穏やかな時代と呼ばれるにふさわしい時代だった。
 つまり、今メリーが話したような考え方の方が、時代錯誤はなはだしいと呼ばれるべきものとなっていたのである。

「だから、メリーももう少し世界を見るといいかもね」
「見てるわ。もう、『スキマ』から違う世界をいっぱいね」
「つかめなくて触れ合えない、『スキマ』から他人を見過ぎちゃった、か……」

 頑なに人との接触を拒むメリーに、蓮子は聞く。

「……ねえ、メリー。寂しくない?」

 聞かれたメリーは、蓮子を見つめながら返答する。

「少なくとも、蓮子といれば暇ではないわ」

 少しばかり皮肉交じりだったのは、真っ正直に親しみを告げるのも今の時代のトレンドではないからだった。

「今ばかり見ていると、後が大変だよー」

 蓮子は脅しをかけてみるが、メリーは耳に入れている様子がない。

「いいのよ。今が楽しいのも、後が大変なのも、どちらも受け止めなくちゃいけないんだもの。だから今は、あなたとともに『スキマ』を探すことが必要なのよ」
「……メリーって、最後でずるいんだよね」

 少しばかり蓮子にすねさせれば勝ち、メリーは最近添う思うようになった。



 この瞬間が幻のように、メリーは思える時がある。
 口ずさむ。
 心の中に生まれる、意味のない不安を拭い去るように。
 彼女は、もう一度口ずさむ。
 歌の一節を――少しばかり手を加えた詩を無意識に――歌いながら、メリーはそう願う。
 『永遠の一妖』よりも、『一瞬の二人』があることを。






 ヒツジはある日彼女の学校についてきて、
 ヒツジはある日彼女の学校についてきて、
 そこでの規則に反していました。
 ヒツジは、子供が笑って、遊んで、笑って、遊んで、笑って、遊ぶのをさせてくれました。
 ヒツジは子供を楽しませました。
 だけれどヒツジは、子供の学校には入って来れません。
 ……そして、私は……
 学校からヒツジを、見ているだけなのです。






「――さま?」

 呼び声に答えて、眼を開く。
 目を覚ませば、そこにいるのはもう一緒に戯れたヒツジではない。
 そこにいるのは、そこにあるのは、たった一人であることが存在意義である『妖怪』の世界。

「――さま?」

 ここは学校。
 妖怪と一部の人間だけ住まうことができる、妖怪と人間の里。

「――」

 そこは彼女と交わることのできない、本当の場所。

「紫、様?」
「――おはよう、藍」

 そして『メリー』では気づくことのない、学校という世界を保ち続ける『八雲紫』という『妖怪』の視界。

「ええ、おはよう藍。とても……眠いわ」

 そして『八雲紫』が忘れていく、『メリー』という少女の想い。
 まどろみに消えていく、人間『メリー』の儚い願い。

「だめですよ、紫様。今日は霊夢とともに結界修復の仕事があるのでしょう?」
「あら、そうだったかしら? 藍、代わりに……」
「紫様?」
「冗談よ、冗談」

 名前とは不思議なもので、彼女は『紫』と呼び続けられるたびに『紫』となっていく。

「藍」
「はい?」
「あなたは、とても良い声をしているわ。そう、わたしの名を呼ぶにふさわしい声」

 紫にそう言われて、藍は怪訝な目を向けることしかできない。

「あ、ありがとうございます」
「だから、そう……」

 最後のひとかけらを、心の中に封じ込めて。

「これからも、わたしの名前を綺麗に呼んでね?」

 彼女は『マエリベリー・ハーン』から、『八雲紫』へと戻る。
 本来彼女がいるべき、幻想の世界へと。