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■   居るべき場所   ■

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 ……いかほどの時が流れたのだろう。
 パチュリー・ノーレッジに使い魔として呼び出され、ここ魔法図書館の司書として働き始めてから。
 そのことに不満はない。
 むしろ、幸せだとさえいえる。
 今では主(あるじ)として尊敬している魔女、パチュリー・ノーレッジ。
 仕えるべき対象としては、申し分のない相手。
 そんな主従として過ぎる、当たり前の日々。
 このままこの日々が続くのだと、小悪魔は無邪気に信じていた。
 なぜなら、この場所が変化することなど、今まで一度もなかったからだ。
 起床して、パチュリーと紅魔館住人が読んだ本を整理する。
 貸し出しリストに眼をとおす小悪魔と、古文書や魔術書に向かい合うパチュリー。
 夜更けのティータイムからしだいに生まれてくる、深夜の静穏。
 パチュリーが呼びかければ、二人だけの静かな語らいが訪れる。
 知識を語る主と、それを嫌がらず聞いてくれる使い魔。
 穏やかな時間は、主の就寝と共に終わる。
 小悪魔は一日の仕事を終えると、自室のベッドにもぐりこむ。
 毛布に包まれ暖かくなっていくなかで、今日の反省と明日への対策を思い浮かべる。
 いつしか眠りに落ちて、気づいたときには明日が来ている……。
 そしてまた、主であるパチュリーとの静かな一日が訪れる。

 暖かい紅茶の香りと、底なしとも思えるパチュリーの知識。
 愛しい時。
 終わらない時間。
 また明日も、やってくる瞬間。
 そんな平凡で当たり前な日常が、続くものだと彼女は思っていた。

 だが、当たり前に続く日々など基本的には存在しない。
 どれだけ幸せであろうと、どれだけ不幸せであろうと、なんらかの形で終わりはやってくる。
 それがいかなるものか、個々人で異なるだけ。
 小悪魔とその主の、静かな日常。
 どこまでも続くかと思われた、ひとつの日常。
 それは、とてつもなく騒がしい白黒魔法使いの侵入によって、終わりを迎えた。






 ある夏の日。
 幻想郷を赤い霧が包み込んだらしい。
 原因はこの紅魔館の当主の仕業らしいのだが、小悪魔はそのあたりの詳しい経緯は知らなかった。
 小悪魔は魔法図書館の司書として、当たり前の日常をすごすことが勤めだと思っていたからだ。
 興味がないわけではなかったが、積極的に知ろうとも思わなかった。
 彼女にとって、役目を果たすことこそが第一だったからだ。

 そしてそのある夏の日から。
 魔法図書館の日常は、大きく変わっていったのだった。



 炸裂音。
 半壊した扉が地に落ちる。
 静寂。

「……どちらさまでしょうか?」

 薄煙が、静かに問う小悪魔を覆う。
 しだいに晴れていく薄煙の向こうから、姿が浮かび上がる。

「いやぁ、ここは本がたくさんあるな。あとでもらっていこうと思うが、いいか?」

 明快に話しかけたのは、白と黒の色を着分けた少女。

「失礼ですが、借りるという選択肢は存在しないのですか?」

 少女の正体はわからないが、彼女が魔法図書館の静寂を破ったことは確かだ。
 騒音は読書にとって大敵だ。
 秩序、もしくは明確な意図を持った音ならばともかく、ただの騒音を発生させた彼女は魔法図書館という場にふさわしくない。
 おまけに、魔法図書館の存在意義である本を奪っていくという。
 小悪魔は、表情に険を浮かべて少女をにらむ。
 だが、少女はにやりとしてこう言った。

「むしろここの本は借りるんじゃなく、狩るほうが似合いそうだな」
「……ならば、お帰り願います!」

 そう呟き、小悪魔は弾幕を展開する。
 侵入者にたいして、容赦はしない。
 小悪魔は司書として、本の管理を任されている身だ。
 この魔法図書館の本を狙う侵入者の撃退も、役目の一環であった。
 見たところ、少女は人間のようだ。
 ならば、たとえ力が弱いとはいえ、悪魔である自分が負ける道理はない。
 そうして、二人の弾幕ごっこが始まった。
 このとき、小悪魔は気づいていなかった。
 少女が紅魔館の内部まで侵入できるほどの、力の持ち主であるということを。

 結果として、弾幕ごっこに敗れたのは小悪魔だった。
 パチュリーが駆けつけ対峙するも、喘息の発作が起こりこちらも敗退せざるをえなかった。
 また同時期に、紅魔館当主レミリア・スカーレットが別の人間に撃退されるといった事態も起こっていた。
 小悪魔は後にそれを知るが、それよりも小悪魔には驚きだったことがある。
 自分を打ち負かした人間が、当主の妹や、喘息症状の治まったパチュリーまで打ち負かしてしまったこと。
 パチュリーに召喚されて以来、こんな大きな事件は彼女にとって初めてのことであった。
 だが、事件はここでは終わらなかった。
 むしろ、変化はここから始まったのだった。

 そう。
 静かで、穏やかで、変わりばえがしなくて。
 そんな日々は、少しづつ変わっていく。
 小悪魔の信じていた日常が、少しづつ崩れていったのだ。






 陽のあたらない魔法図書館は、ひきこもりになるのに最適な条件のひとつだと小悪魔は思う。
 人によって「最適」の内包する意味は変わるだろうが、ここはその意味を充分に満たしている場所だろう。
 小悪魔の主であるパチュリーは、そんな場所にとりつかれた者の一人である。

「これは違う……これは……年号が合わない。どれが正しいのか、今度の宴会のときに聞けば……ああ、でもこれを無視してまとめはじめるわけには……」
「パチュリーさま」

 小悪魔の呼びかけに、パチュリーは返答しない。
 こうしたところは変わらないな、と小悪魔は苦笑した。

「お身体に障りますから、就寝を」
「そうね……あなたの言うとおり、止めたほうがいいわね」

 もそもそと椅子から立ち上がり、本の整理を始める。
 本の整理は繊細に、それでいて手際よく。
 身体の弱いパチュリーに代わり、本の整理は小悪魔が主となっておこなっている。
 だが、それはパチュリーが本の扱いに長けていないということではない。
 今日一日、自身が眼を通した本を整えるパチュリーの手際は、まさに魔法図書館の主のものと言えた。

「この前、咲夜にもそう言われたのよ。身体に障るから夜更かしは良くないって」
「咲夜さんの言うとおりだと思います。ただでさえパチュリーさまはお身体が弱いのですから」
「そのときにモヤシって言われたわ。失敬よね」
「……言いえて妙ですね」

 ぽそりと――だが聞こえるように――呟く小悪魔に、パチュリーはのそりと視線を動かす。

「なにか言ったかしら、小悪魔」
「いえ、なにも」

 苦笑しながら、小悪魔は思う。
 こうしたところは変わったな、と。
 以前のパチュリーなら、本のなかの知識で人と話していた。
 彼女の語る言葉の列は、本のなかに記された整合性をなぞったものだった。
 それが、不整合であり一瞬で消える会話というものに変化していた。
 小悪魔は主の変化に対して、あえて指摘したりはしない。
 なぜなら――彼女自身が、そうして変化する主を受け入れられていないからだった。






「――ええ、なにも――言っていません」






 少しばかり、想いは過去へと巡る。
 あの、人間に打ち落とされた日を基点として。

 あれから、この魔法図書館にも、他者が入り乱れるようになった。
 多少の喧噪も生まれるようになった。
 人間から魔法使い、妖怪から吸血鬼、あらゆる種族がこの魔法図書館を利用するようになった。
 魔法図書館が図書館であるなら、そうした喧噪もおかしくはない。
 知識や本は、求める相手を常に待っているからだ。
 そのなかには、自分を打ち負かした人間もいた。
 その人間と親しい、魔法使いという種族もいた。
 主であるパチュリーも、最初こそ変化は少なかったが、次第に変わり様を見せていった。
 そして小悪魔は、そんな主の変化に――戸惑っていた。

 レミリアと咲夜。
 あの御二方も変わっていった、と小悪魔は想う。
 だが、その関係に、依然変化は見られない。変わっているのに、変わっていない。
 主従を超えた関係。そう、小悪魔には見える。
 ――あの御二方のようになれたら。
 自分とパチュリー・ノーレッジの関係が、ああいったものであれればと願う。
 けれど、と小悪魔は考える。
 レミリアと咲夜のような関係を、小悪魔が主ときずくための接点。
 それが、決定的に欠けているのではないか。小悪魔は、そうも考える。
 彼女は小悪魔と呼ばれる、幼い悪魔。
 パチュリーはそれを使役する、魔女。
 同じ「魔」という言葉を含んでいても、小悪魔はパチュリーに使役される使い魔でしかない。
 小悪魔とパチュリーの関係は、そこから始まっている。
 それは小悪魔のなかで、絶対原則として染み付いていた。
 『運命』と『時間』。
 レミリアと咲夜には、まるで歯車のようにかみ合うなにかが存在する。
 だけれども、と小悪魔は自問する。

 ――わたしとパチュリーさまにあるのは、主と従者という以上のものではない。

 わたしは、パチュリーさまに使役されるために呼ばれた。
 司書となるために、彼女に仕えるために呼ばれた。
 その関係のなかでこそ、わたしはパチュリーさまの側にいられる。
 それ以上を求めるのは……わたしには許されていない。
 小悪魔は、苦悩する。
 自分には、なぜ感情があるのだろう。
 なぜパチュリーさまは、感情のない人形を使役せずにわたしを呼び出したのだろう。
 わたしを側に、置き続けたのだろう。
 それは素晴らしいことだと想っていいはずなのに、どうしてわたしの胸は苦しいのだろう。
 この感情はいったいなんなのだろう。
 言葉が、その感情の一片も表せないのは――なぜなのだろう。



「おっすパチュリー、また借りに来てやったぜ」
「借りるんなら返して」

 魔理沙の言葉に対するパチュリーが反応の、嫌悪だけでは決してない。
 その響きが、側で聞き続けてきた小悪魔には理解できる。

「すまんがまだ読み終わってないんだ」
「どれくらい?」
「一冊も」
「早く返しなさい。むしろ持ってかないで」
「いやぁ、やっぱり自宅ってのはダレルからなぁ」
「そう?」
「じっとしているのは、必要がないと性にあわないんだ。お前さんはよく飽きないな、そこんところは凄いと思うぜ」
「なにが凄いのよ。話がつながっていないし」
「というわけで本日のショータイムだ」
「持ってかないでって言ってるでしょ……!」

 からかい半分の魔理沙の付き合い方にも、本当の意味で嫌ってはいない。
 だからこそ小悪魔は、そうしたふうに接近できない自分が嫌になる。



「あのバカ、まだそんなことやってるの」
「やってるの」

 アリス・マーガトロイドの気遣いの言葉にパチュリーは頷く。
 同じではないが近しい種族としての、気を置かない相づち。
 そんなパチュリーの表情を、小悪魔は一度として見たことはなかった。

「同情するわ。大変でしょう」
「大変ね。それはそうと」
「なにかしら?」
「そういうあなたも最近しょっちゅうここに来るけど、それはどうしてかしら」
「来ちゃいけないの? ちゃんと門番の許可は取ったわよ」
「魔理沙とは逆にこまごま借りず、一気に借りていけばいいと言ってるのよ」
「あー、うん。でも、わたし小食だから」
「そういう話? ここでとっていては、自宅で食べる量はどうなるのかしら」
「そういう話なのよ。で、昨日は何を話したっけ?」
「そうね、昨日は確か……」

 そうして魔女と魔法使いは、様々な知識を編んで議論を交わし始める。
 その時に浮かべる、どこか熱っぽいパチュリーの表情。
 小悪魔に出来たのは、パチュリーの言葉を聞くことだけ。
 パチュリーの気づかぬ彼女を引き出すことなど、小悪魔には出来なかったのだ。

 そんな新たな日々が、小悪魔の瞳を過ぎてゆく――





「――言っていないことは、無いんじゃないかしら?」





 そのパチュリーの一言で、小悪魔の意思は現在へとつながる。
 過去のパチュリーから、現在のパチュリーへと。
 重ねられた姿は、同じもの。
 だけれどもその変化は、自分によってもたらされたものではない。

 小悪魔がここに呼び出されたとき、パチュリーは今よりずっと無表情だった。
 独りぼっちだったパチュリー。
 共有されない知識。
 理解されない推測。

 ――そのために呼び出されたわたしの役目は、終わりをむかえたのかもしれない。

 静かな場所で。
 静かな二人だけの時間。
 その時は、終わりを告げたのだ。

 小悪魔は思う。
 パチュリーに似合うのは、同じ魔女だと。
 彼女は、小悪魔は、あくまで仕える者。
 この魔法図書館と、パチュリーに使えるために存在する。
 ……それだけでいい。
 彼女は願う。それだけの存在でよかったと。
 だから、ここにいたい。この魔法図書館に、パチュリーとともに。
 ……でも。
 もう、それだけのことも許されないのかもしれない。
 それはとても、わがままな願いなのだから。
 変わらない世界など、ないのだから。
 あの、二人だけの時間に焦がれている自分は、あまりにも従者としては求めすぎていて。
 そして、その想いを告げることも出来ず、また消すことも出来ない自分には、この場所にいることは出来ないのだと。
 小悪魔は、そう思い詰めていた。

「……ここも賑やかになりましたね」
「そうね。ちょっと迷惑だけれど」
「パチュリーさまも、お変わりになられましたね」
「そうかしら? わたしはなにも変わっていないわ」

 そう答えるパチュリーに対して、小悪魔はあくまで穏やかに答える。

「いいえ。そう、とても開放的になられました」

 その一言が、パチュリーの胸になにか引っかかる。

「……小悪魔、なにかあったの?」
「なにもありません。ただ……パチュリーさまが明るくなられて、良かった」
「小悪魔?」
「パチュリーさま、わたしは……」

 その一言は、あまりにも素直に口から滑り落ちてきた。
 支えていたなにかが、切れてしまったかのように。

「魔界へ帰ろうかと、思うんです」

 一瞬、沈黙が訪れてから。

「……なんですって?」

 あくまでも淡々としたパチュリーの問いが、逆に発言の意味を問いただしている。
 だが、小悪魔はだからこそ、言葉を止めるわけにはいかなかった。

「それは……言えません」
「ここが……嫌になった?」
「違います! そうじゃありません……そうじゃないんです」
「なら、どうして!?」

 パチュリーの問いには、怒りが含まれ始めていた。

「……わたしは、魔法図書館の司書です」
「そうね。その自覚があるのに、出てきた言葉はさっきのものなのかしら」
「そうです。だからこそ、今の魔法図書館には……ふさわしくないんです」
「……わけがわからない。小悪魔、本当に……!」

 パチュリーが怒りをぶちまけようと、小悪魔をしかと見据えた時。
 少女の瞳には、悪魔らしからぬ、涙のしずくが零れていた。

「……小悪魔……?」
「すみません、パチュリー様、すみません……!」

 絶叫する小悪魔の声を聞くに従い、パチュリーはその表情を暗く陰らせるのみだった。

「……里帰りには、召還の時と同じ魔方陣を使うと良いわ」
「……パチュリー様……」

 パチュリーはくるりと背を向けて、椅子に座り、告げた。

「お務めご苦労様、小悪魔。それじゃあ……元気でね」
「……!」

 その言葉を聞いた小悪魔は絶句し。
 そして、振り返ることもなく、魔方陣の部屋へと駆けだしていった。



 そんな場面を見ていた、二つの影があった。

「なんだか、とってもややこしくなってるみたいだぜ」

 修羅場、という言葉が魔理沙の脳内でちらつく。

「……わたしたちのせいかしら」

 客観的なアリスは、そうした感想を小悪魔の態度に抱く。

「おいおい、パチュリーにべったりだったお前のせいだと思うぜ。私は無罪だ」
「この場合、魔法図書館司書としての自信をなくさせたあなたに責任があると思うけれど?」
「……平行線だな」
「……平行線ね」
「なら、協力しないか? パチュリーがあんなんじゃ、持っていくものも持っていきにくいぜ」
「持ってくなっての……。でも、そうね。パチュリーと話していた理論、まだ最後まで教えてもらってないし」

 魔理沙にとっては、心地よい場所がなくなるのは避けたいものだ。
 そしてそれは、アリスにとっても同じ事だった。
 ――ただし、アリスには違う感情もまた少しあった。
 魔界。
 その場所が里帰りを意味するのは、小悪魔だけではないからだった。

「じゃあ、そういうことだな」
「ええ、そうね」

 魔法使いは頷きあって、お互いの進む相手へと歩き出した。
 彼女たちが、この場所を変えた原因なのはわかっている。
 ただ彼女たちにとっても、この場所が今のように壊れてゆくことは、あまり好ましくないことなのは知っていたのだ。



「いやぁ、今日は静かだな」

 魔理沙の呼びかけにも、パチュリーは一切の動きを見せない。

「あなたが来ないときは、いつも静かだわ」

 ただ一言、ぽそりとした呟きを返すのみだ。

「ところで、本が積みあがってるのはどうしてなんだ? まるで私の家みたいで、らしくないぜ」
「読むほうが忙しいの。片付けている暇がないのよ」
「わたしもわかるな。もし片付けてくれるやつがいたら、楽だと思うぜ」

 わざとらしすぎる提案。
 それは魔理沙もわかっている。むしろ、わかっているからこそやれる。
 案の定、パチュリーの態度が少し変化したのが見てとれた。

「……ふぅ。魔理沙」
「なんだ?」
「あなた、嘘つけないでしょ」
「お互い様だぜ」
「覗きもいい趣味とはいえないわ」

 悟られていたようだが、ここは彼女のテリトリーだのだ。驚くことではない。
 むしろ、と魔理沙は考える。

「野外ライブを誰が見ようと罪はないぜ。始める奴らに問題があるんだ」
「問題なんか、ないわ」
「いっぱいありすぎて、めんどくさいぜ。違うか?」

 パチュリーの沈黙に、魔理沙はトドメの一言を放つ。

「止めてやることも解決してやることも出来ないぜ。お前がやれ」
「……嫌われたのは、わたしのほう。どうやって、やれっていうのよ」
「案外に、鈍いんだな。本当に嫌ってるんなら……わざわざ泣いたりするかよ」
「……でも」

 煮え切らないパチュリーの態度の意味を、魔理沙は理解している。
 だからこそ、ばっさりと切り捨てなければならない。

「代わりなんか誰もいないし、それを気にして聞かせたんだろうが、まかせるんじゃない。『小悪魔の主』は、誰でもない、お前なんだぜ」
「……」

 誰にも押しつけられない、自分の役割。
 魔理沙の言葉に、パチュリーはゆっくりと席を立った。



 魔方陣は、あの当時のままだった。
 手入れがされているのか、年月を感じさせない部屋の様子。
 小悪魔がすぐに使うのにも、なんら支障のない状態だった。

「たぶん、いつでも帰れるようにしていたんでしょうね」

 背後からの声に、驚いて振り向く。
 そこにいたのは、金髪の魔法使いの姿。

「アリスさん……なぜ、ここに?」
「懐かしい単語を聞いたから、かしらね」
「……やっぱり、アリスさんは、あのアリス様なのですか?」

 敬意の含まれた小悪魔の言葉に、しかしアリスは一つのため息を持って答えた。
 そして継いだ言葉は、小悪魔の問いと何ら関係のないものであった。

「いいの? パチュリーとの生活を捨てちゃって」
「……わたしは、使い魔でしかありませんから」
「それはパチュリーが言ったの?」
「いえ……でも……」

 言いよどむ小悪魔の真意を、アリスは測りかねている。
 このままではいけない、と感じて追ってはきたものの、小悪魔の内心を知っているわけではないのだ。
 その態度から、本当に司書を辞めたいわけでないのはわかる。
 なら、自分にできることはなんなのか。
 そう考えながら、アリスは告げる。
 人形遣いとして告げられる、自分の言葉を。

「……人形ってね。とっても冷たいものなのよ」
「……?」
「優しい表情をして、いつも側にいて、不平も不満もこぼさないで、わたしのためにつくしてくれる。当然よね。わたしがそう造ったのだから。だから……彼女達は、暖かくて、とても冷たいの」

 アリスの言いたいことが、小悪魔には読み取れない。
 ただ、その言葉の意味に含まれたものに、なにか冷たいものは感じ取れた。
 だから、否定しようと声を出す。

「そんな……ことは」
「あるわ」

 瞬間、アリスから否定の言葉が発せられる。
 しかし、小悪魔は再び口を開く。
 人形は、それほどに冷たいものではないはずだと。
 そう、言い聞かせるように。

「でも、人形たちには意思があるのでしょう」
「ないわ」
「え……?」
「あるように見える。そう動かしているだけ」
「そう……なんですか」
「でも、あなたには意思があるように見える。わたしは造り手だから、意思がない事を知っている。けれど……あなたには、あるように見える」
「……?」
「ねえ。本当に……意思があるように、見える?」
「……」

 どう答えるべきか、ためらった後。
 小悪魔は、素直に自分の言葉を述べることを選んだ。

「……はい」

 その答えに、満足がいったのか。
 頷いて、アリスは微笑んだ。

「そう言ってくれる人がいるなら……そうありたいと願う。そう思える自分がいるなら、そうありたい方向へ向かう」
「アリスさん……?」
「ねえ、小悪魔。わたしには、あなたはパチュリーの人形なんかじゃなかったわ」
「……!」
「そうさせてしまったのは、わたしと魔理沙……その他諸々なのかもしれないけれど」

 償いの意味をわずかに含めて、アリスは小悪魔へと言葉を送る。
 そんなアリスの気遣いに気づいて、だから、小悪魔は気づく。

「あなたは、パチュリーをどう見ていたの? どう……ありたかったの?」
「わたしは……」

 一方的な自分の思いを。
 一方的な自分の見方を。
 一方的に、自分はぶつけてしまったのではないだろうか。

「わたしは……!」
「……いいのよ。伝わることのほうが、少ないじゃない」
「……怖い、です」
「なにが怖いの?」
「……わかりません」
「信じていたものや、信じたいと思っていたものが、存在しなかったと想っているの?」

 アリスの言葉は、小悪魔の胸に刺さる。
 かつての日々が、幻に想えてしまって。
 全てを捨てることで、その日々を愛しいものに変えようと思い込んだ。
 そしてその代償に、今ある大切な者を置き去りにして――。

「わたしは……皆さんのように、気持ちを」
「わたしたちの頭は……そんなに便利にできてないわよ」

 自責の言葉を吐こうとする小悪魔を、アリスは優しく押しとどめる。
 吐き出された自分への刃は、誰に求められないものだから。

「あなたは……人形じゃないのよ。パチュリーに使役されたからって、あなたが傀儡(くぐつ)になることはない」
「そのとおりね」

 突然、アリスと小悪魔以外の声が部屋へと響き渡る。
 視線をそちらに転じれば、そこにいたのは――

「――パチュリー、さま?」
「……」

 魔法図書館の主、パチュリー・ノーレッジだった。



「行かないで、いてくれたのね」
「パチュリー様……」

 パチュリーの心底ほっとしたような言葉に、再び小悪魔の涙腺が刺激される。
 先ほどとは異なった意味で。
 だけれど、だからこそ、その涙腺を必死でくい止める。
 その前に、言うべき言葉があるはずだから。

「わたしは、残されてしまいました」
「どういう意味かしら……?」
「パチュリー様と、二人で、語らう。そんな過去に、浸ってしまって」
「……」
「そんなわたしには、もう司書としての資格なんて……」

 小悪魔の言葉を遮って、パチュリーが近づく。
 息がかかるほどの、近距離。
 息をのむ小悪魔に対して、パチュリーが行ったのは――抱擁だった。

「……!」
「大切でない者を、側に置く。そんな酔狂な趣味を、わたしは持ち合わせていないわ」
「……パチュリー様」

 しばしの抱擁の後、パチュリーはすっと身を離す。
 その挙動を見守る小悪魔。
 パチュリーが取り出したのは、一本のナイフだった。

「小悪魔……契約の証を」
「え?」
「あなたが満足していないようだから、もう一度。今度は、もっと深い契約を行うわ」
「……パチュリー様」
「今度は永久就職よ。逃げようとしても、逃げられないような強力なやつにしておくわ。いいわね?」
「……はい」

 ぷつりと。
 パチュリーはナイフの刃を指先に押し当てる。
 透き通るような肌につけられた傷口から、紅い色が膨らみ、塊となっていく。

「契約の証として」
「主とのつながりを……」

 小悪魔はそっとパチュリーの傷口に口づけし――紅い血を、飲み込んだ。

「……ばかね。あなたが必要でないわけないじゃない」

 その言葉で、小悪魔はパチュリーの胸にもたれかかる。
 パチュリーの身体はやわらかく、とても細く、繊細だった。
 パチュリーの温もりに触れる。
 触れた布越しに、パチュリーの体温が伝わってくる。

「暖かいです、パチュリーさま」
「……よく考えると、これってわたしのガラじゃないわね。こういうのは魔理s」

 ぴっと。
 小悪魔は、人差し指でパチュリーの唇を遮る。

(触れ、ちゃった)

 小悪魔は騒ぎだす内心を抑え、パチュリーの言葉を止めた理由を伝える。

「その……すみません。わたしは、そのガラじゃないあなたに抱かれたいんです」
「……あなたも、なんだかガラじゃないわね」
「そうですか?」
「そうよ」
「なら……そんな時間が、わたしは欲しかったんです」
「……わがままねぇ」

 パチュリーの声は、どこまでも優しい。
 小悪魔との、静かな時間。

 今は、主従だけの時間。
 魔理沙もアリスもすでに退室している。
 他人の名前は、出されたくない。
 穏やかな温もりに、包まれていたい。
 そんなささやかな願いを、小悪魔は今、ゆっくりと味わっていた。